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Chiropractic  健康はカイロプラクティックとともに 

Chiropractic 健康はカイロプラクティックとともに 

▼宗教思考


予防医学のカイロプラクティック

WFC 写真

RMIT大学のサイトはこの字をクリックして下さい。

宗教思考??? どういう意味???

宗教とは何ぞや?

未だに多くの人類が宗教で争っている。

争いの原因が宗教にあると言うのなら、
どうしてそんな詰まらない宗教を信仰の対象にしているんだろう? 

争いながら戦争をしながら、それらを信じている人々は、宗教をどのように捉えているんだろう?

自分達のやっている行動が可笑しいものだと全く思えないのだろうか?

それとも逆に私のような疑問を持ち過ぎる人間を否定するのだろうか?


はっきり言って私には
宗教家の考えがわからないし、その行動にどうしても疑問が生じている。 

しかし宗教信奉者は真面目にその宗教、宗派を信じているんだろうし、教義を理解している筈でしょう。


そしてどの宗派にも共通することは、
当たり前のようですが、必ず組織には指導者が存在していることです。 

そしてその指導者の話す言葉を、疑問を持たず、そのまま言葉を鵜呑みにして、信じ切ってしまっているということです。

私から言わせば、
盲目的に信じている人々が、余りにも多いということなのです。


宗教と言うと、多くの人々は反感を持っているかも知れない、と感じています。

全くそうではなくて、逆に信じない人々を、批判してしまっている傾向もあるように感じてもいます。 

「信じたら救われるのです」という誘いで、
信じない人々を、批判していると云う事があると思います。


でも宗教は自由にとらえる事が出来るはずなのに、
そうではない現実も存在しているような気がして成りません。

それは強制的に人々を勧誘をしたり、
義理や人情に訴えて、勧誘をしている宗教団体があるのも事実です。


多くの宗教組織には、「拝む対象物」を必要としています。

日本においては「拝む対象物」が無ければ、法律的に「宗教法人」として認可されない規定があるからです。 


それゆえに何かを祀り、何かを拝む対象物にし、それを「指定」しなければ成らないからです。 

そうしないと「宗教法人」としての人格が、政府から認められないために、そうしている部分もあるからです。

仏陀像 仏教では仏像がその対象にされています。

でもその仏像が人々の心を、幸せの境地に到らせるものではありません。

あくまで仏像は物であり、拝む対象物ではありません。

また魂を入れるという行事がありますが、
それも魂が入っているであろうと信じる心があって始めて、成り立つ概念であるようです。

キリスト像 キリスト教にしても教会に行き、礼拝をしなければいけないような習慣になっている。 

そしてキリスト像に向かって祈りを捧げる。 

またマリア像に向かって祈りを捧げる。 

そして聖書を読み、歌い、心を奮い立たせるような行動を起こしている。

それぞれが神化された形で、それを信者が信じる事で、その形態は成り立っているようだ。


回教も同じで、一日に五回も祈りを捧げるという。 

そしてそれをしないと信者ではないという。

アラーの神に、祈りを捧げる。 

何事においても、「神の御心のままに」という言葉を使い、
自分勝手な行動を正当化している、他力本願化した宗教団体のように伺える。


多かれ少なかれ宗教団体は、
ほとんどが自分勝手だと、言わざるを得ない状況だ。


地球人として考えても、どうして宗教で「拝む対象物」が必要なんでしょうか?

本当に宗教はその様な「対象物」を必要とするものでしょうか?


宗教という字は、ウ冠の中に示すという字が入っています。

これはウ冠の意味を、理解する必要があります。

実はウ冠は「宇 宙」を表す字だそうです。 

それゆえに、という字は、
「 宇宙を示す 」という意味だそうです。

だから宗教という字を解読すると、
『宇宙を示す教え』という言葉に置き換えれます。

私もこの字の「からくり」を知った時、心が納得しました。
でも一体何を示すんだろう…?と思います。 

宇宙の何を示すんだろうか…? という疑問に、普通はぶち当たるんではないでしょうか?

私もそうでしたが、その中身を理解したとき、また納得できました。

それは
永遠不滅の宇宙の運行を示しているのだ」 ということです。


一糸乱れる事無く動いている宇宙の運動の中に、
真の調和が存在していることを、どのようにして理解して行くかです。

銀河の衝突私はこの広大な計り知れない広がるこの宇宙が、一糸乱れず運行をしていると思っていましたが、
我々が住んでいる「銀河系」と同じ形態をしている「銀河」同士が、宇宙空間で激しくぶつかっている真実を、望遠鏡で見た事がありました。 

この事実の写真を見た時に,一糸乱れない,という言葉に疑問を持ちました。

私の解釈では、一糸乱れないことは、
「ぶつかることは考えられない事」だったからです。

なぜなら、規則正しく運行しているのだから、
ぶつかって壊すようなことはおこらないだろう、という予測で判断していたからです。


ハッブル望遠鏡星の運行が不連続で乱れれば星同士がぶつかる事はあるだろうが、
乱れないでいるのなら、ぶつかる事は到底考えられない事、のように思えていたからです。

しかし現実的に、この宇宙空間で『星同士がぶつかっている……』のは事実ですね。

ハッブル宇宙空間望遠鏡が、その真実を教えてくれました。

この疑問『 宇宙空間では、星同士はぶつかる事は無い 』
に対してやっと最近、私の考えが間違っていることに気が付きました。


「生物の新陳代謝」を勉強したときに分かるかと思いますが、
我々の肉体も、新陳代謝を通じて、新しい細胞と古い細胞との交換が、常に行われていることは、誰もが分かっていることだと思います。

それがこの宇宙空間でも行われているということなのです。


そうです、この星々が我々の細胞と同じ物だとしたなら、これは説明がつくのです。 

この説明は別に強制するものでもなく、当然ながら信じなくても結構ですが、常にこの宇宙も新陳代謝を繰り返し、新しい細胞である星が常に作り続けられているのも、事実なのです。


この事実を理解したとき、
今までの私の考えが、余りにも狭小で狭い範囲でしか物事を見ていなかったことに気が付きました。

この宇宙も我々と同じように、呼吸をしているとしたら、
それは理解できるでしょうか? それとも一笑に付しますか?

しかし現実に星同士がぶつかり、破壊された後にまた新星が現れているのも事実なんです。 

それが『新陳代謝の証明』なのです。


この様な宇宙の運行が何を示すのか、という事に疑問を持ちます。

確かに宇宙は規則正しく運行し、常に新陳代謝を繰り返し、新しい生命を作り続けているという判断は正しいものだと思います。

だが宗教という字の解読によって、
宗教という字の意味が『宇宙の運行を示す教え』ということを理解したとしても、
その説明の文章が「規則正しさ」だけを示しているというのでしょうか?

「規則正しさ」の中の何を私達は学び、理解する必要があるのでしょうか?


この答えは有るのかも知れませんし、無いのかも知れません。

またその答えは、人それぞれでは違う答えが出るのかもしれません。 

しかし、それぞれが違う答えを出したとしても、それは全て正解だと思うのです。

人それぞれの人生や生き方は、みな違って当然だからです。 

だから、人の数だけ答えが存在していると考えても、良いかと思います。


ただ私達が考える行為の中で、理解し易い仕方として、
太陽を神と考え、それ以外の惑星を生命だとして考えると、理解しやすいのかもしれません。

大昔から太陽を崇めて信じていた人間に戻って、考えてみたい気がします。

銀河系我々は太陽を中心に、 宇宙引力によって正確に動いています。

そして銀河系の中心から五分の三の所に太陽系は位置し、
銀河系の重力と引力の影響を受けながら、太陽系の動きを形付けながら正確に動いているということを、どんなにコンピューターの物凄いものが出来たとしても、計算し計り知ることは到底難しいこと、ではないかと思うのです。


そして銀河系の直径が10万光年もあるというのですから、私の悪い頭では計算は出来ません。

だって一光年は光のスピードが一年かかって進む距離だから、その10万倍という距離は、想像すら出来ません。


またこの地球を取り巻く力は、全宇宙の星々の影響を利用して、または利用できて始めて正しい位置で運行が出来ているのも事実です。

しかし安定して動いているこの事実を、我々が変えることは出来ませんが、仮に太陽が自分勝手な行動を取る恒星であるのならば、我々がこの地球惑星で生きる事は全く出来ません。


それは、好き勝手に太陽が動き回れば、この地球の大気は、全く地球に存在することは不可能になるからです。

場合によっては引力は無くなり、地球の自転も不規則になり、当然公転なんてものは無くなってしまいますから、四季折々の変化は見ることなど不可能です。

また生命は存在することも不可能ですから、我々は存在することなど到底出来ないことは、お分かりだと思います。

その理由は太陽が不連続で、自分勝手に行動するから起こる現象です。


しかし「秩序正しく運行する」ことが出来ている現在の太陽系では、今言っていたことは起こっていませんし、起こりません。 

もちろん、地球と月の関係でも、一年で3.5センチずつ離れて行っている事実は、将来の関係をどの様に見るかという問題を提議しますが、遥か先の話ですから、今は問うことは必要が無いと思います。


常に太陽の恵みは、私達を生かしてくれています。

また万有引力のお陰で、水も空気も気体の性質の重量の関係で、この地球にへばり付いてくれていて、私たちのこの肉体を「生きる」ということで、維持させてくれています。

しかしこの事実を我々は、心から『感謝』しているんでしょうか?

当たり前として、当然のように、考えているだけではないでしょうか?


宗教で私達はどのような事を知り、宗教の在り方を、理解することが出来るのでしょうか?

ただ単に『感謝』することだけが、その学びなんでしょうか?


宗教は『感謝して神様に貢物をしなさい』と、言っているのでしょうか?

捧げもの、プレゼントをする事が、宗教の意義なんでしょうか?

私はもっと別の所に、「宗教の真意」が、存在していると思います。


モーゼ像モーゼさんがユダヤの民を率いている最中に、多くの奇跡が目の前で展開した時、彼はその現実、奇跡を目の当たりにするが余り、そして神様への畏敬の念が強くなり過ぎた余り、神様から禁じられていた供え物(動物を殺して捧げる行為、生贄の行事)を行ってしい、 それから生贄の儀式が始まったとされるのですが、これも人間の愚かさが前面に出ている真実かも知れません。


「してはならない」
とされていても、人は弱く、その行為を行ってしまうのです。


『してはならないことをするのが人間だ……』と言うことも可能です。

しかしそうではなく
しては成らないことをしないでおく事が出来るのも人間だ……

と言うのも正解だと思います。

そのどちらを選ぶかは、その人の、その時の全ての人格が決める事かも知れません。

でも自分の心が選ぶのはどちらなのか。

迷った時に、判断しなければ成らない時に、心迷うのが人の心の在り様だと思います。


人は善悪、明暗、美醜、左右等々のどちらかを、選ばなければならない判断が要求される人生を歩く、宿命に似た、生き方をしなければなりません。

しかし、どちらを選んでも、その人生は存在しているとしたら、選ぶという行為が、本当に重要に成るという事ではないでしょうか?


人の心の中では、常に相反する心の作用が動いています。

電気関係で言えば、ダイオードのスイッチのようなものです。

常にプラスになったりマイナスになったり、
特定の作用で、その性質が変化するのも、人間の心の作用に似た所があります。

やはりどの世界も常に「選ぶ」という行為が、求められていると思います。

しかし選ぶにしても、その選んだモノの結果、どの様に成るかは、ハッキリ言って分からないことの方が多いでしょう。

しかし人間には、未来を予測する能力が与えられています。

だから未来を選ぶことが出来ます。

そしてその結果、未来は形作られてしまうのです。


人生を変えることは、可能です。

宿命は変える事は不可能ですが、運命を変えることで、未来は変化します。


宇宙の運行は新陳代謝を繰り返す行為を続け、
これからも古い環境は破壊され、その中から新しい環境が整備され、
その環境に順応した生命が生きることに成ります。

常に宇宙は新陳代謝を繰り返し、
その結果新しい生命が産まれて来ます。

宗教はその様な宇宙の存在を肯定し、
宇宙の在り様を我々に示し、その様に生きよと言っているのではないでしょうか?


少しばかり人間は、
いい気「自分勝手」に成っているのではないかと思います。

計り知ることの出来ない、この宇宙の存在を、
どこまでも数学的に理解しようとも、物理的に判断しようとも、
その宇宙の心の中まで理解出来るでしょうか?

「五感で感じる宇宙」と、「心で感じる宇宙」は、違うような気がします。

『目に見える世界』と、『心に写る世界』とは、全く違うモノだと思います。


原子爆弾を作ったところで、それを武器にし、多くの人々を殺したアメリカの行為も野蛮なことですが、それを作ろうと必死になっている、北朝鮮の行為も野蛮な行為です。


人は自らが破壊行為を繰り返す中で、信じあうことが難しくなってきました。

しかし、この破壊行為が何を示しているかは、全ての人々が理解できる事ではないでしょうか? 

破壊によって何が産まれるのか!?。

人間の行った破壊行為では、
宇宙で行なわれている新陳代謝とは違う、『無』しか産まれてきません。

経済力が無ければ、破壊された所の復興は難しいのです。


人間は多くの発明をして来ました。

その多くは、困っている人々のために、発明をして来たのが殆どかも知れません。

最初は善意に溢れた発明であったはずですし、それを人々は賞賛し未来に希望を持つようになりました。

しかしその一方で、心暗き人々は、その光る発明を如何に悪巧みに使おうと考え、 人々の苦しみのための道具として、自分の力を示す道具として、恐怖を与える道具として、善意の発明を悪意の道具に仕立て上げて来ました。

そしてそれが『仕方が無いこと』として、
何時も力の強いモノに同調して、生きてきました。

反論をすれば『死』が待っているから、死にたくは無いから、それに従ってきたのも事実でしょう。

坂本竜馬死を覚悟して生きることは、本当に勇気が必要とされます。

明治維新の青年達は常に死を覚悟し、未来のために生きることを考えていました。

その明治維新の若者達は、
新陳代謝の如く己の変革を行い、未来に命をかけ、その未来が命を掛けるだけの価値がある事を感じて、その様に行ったのだと思います。


今の我々は今の現状を、『仕方が無いこと』として、考えているのではないでしょうか? 

そして宗教も形骸化され、
行事化されたものを見て、信じて、それが当たり前という感覚で接しているのではないでしょうか?

本当は、当たり前の中には、新陳代謝は起こらないということです。

常に変革が起こり、その変化の中に、新陳代謝は存在しています。

毎日の生活を通して、貴方も含めて、それぞれの心の宗教改革が行われ、新しい自分の創造を実行されることで、未来は変化していく事を感じる時がくると思います。


自分の現状に不満足であれば、満足に成るように、自律した行動を採って行くことだと思います。

何事も自己責任ですね。

他に甘える事無く、
自分の責任としてこの人生を有意義に過ごせますことを祈っております。


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